昭和五十七年五月二十五日 朝の御理解


御理解第六十一節

「神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞ、信心しておかげを受けたら神心となりて人に丁寧に話をして行くのが真の道を◎んで行くのぞ、金光大神が教へた事を違はぬやうに人に伝へて真の信心をさせるのが神への御礼ぞ、これが神になるのぞ、神になりても神より上になるとは思ふな」


 昨夜は北野の秋山さんのお宅の謝恩祭でございましたが、本当に謝恩祭の名にふさわしいお祭り、おかげを受けておる事に対する御礼のお祭りが盛大に、しかも賑やかに出来ました。
 あちらへ私が参りましたら、御主人の秋山さんが御挨拶に出て見えました。もう何十年も椛目合楽を通じて信心をなさって、しかも総代にまで御用を頂いておられたのですけれど、七十八才になられるそうです。去年の夏、確か夏期信行から朝参りを始められたと思うんですけれども、奥さんは今現在合楽の婦人総代として長年朝参りを続けておられますね。
 夫婦でお参りが出来られるようになった、と云うのは夏からでしたけれども、この年になって初めて信心の有難さと云うか、朝参りが有難うして楽しうなった、と云う事の御礼御届がございました。 私は今日の謝恩祭の第一番の御礼はこれだな。と、思うた事でございました。
 長年信心はしておる。成程、何か御願いがある時には朝参りもしとったけれども、おかげを頂くとすぐ止めてしまう、と云ったような信心から、もう随分長い間朝参りが楽しうなって有難うなってきた、と。
 長男は光幸さんと云いますが信心はありません、時々自分の仕事の上で不如意な事があったり、おかげ受けねばならない時に参って来る程度であります。
 それが最近は、もう本当にこれが神様のおかげ、と思わずにはおれないような働きを日々受けておる、と云う事。
 両親の信心が、いよいよ本当の事になって来たら子供達の上にそういうおかげが現れて来た、と云う事も有難い事です。
 今、自動車のセールスでしょうかね、同じ仕事をしておる方達が、秋山さんは特別だ、と特別扱いされる位に日々おかげを頂いておる。 昨日も、今日は家でお祭りがあるから、と思うとりましたけれども、午前中にその商いの話が決まって明日も又、そのおかげが頂けれるような段取りが出けとる。
 今日は心おきなく有難くお祭りが頂ける。と云う意味の事を云うておるのを聞きましてね。
 誰でも信心さしてもろうて、そういうおかげと思わずにおれないおかげを受けて、まあ信心になっていく訳ですけれども、決してそれが何時までも続く、とか何時もそうである、とは思われない。
 結局、おかげの有難さからいうならば、信心の有難さ。
 秋山さんの長年の信心で初めて信心の有難さが分かって来た。
 息子さんはようやくおかげの有難さが分かって来た、と云う事でしょう。
 そのおかげの有難さから信心の有難さが分かっていく、と云う事なんですけれども、その信心の有難さ、毎朝、朝のお参りが楽しうなった、と喜びをもって朝参りが出来るようになったから安心、と云う事ではないのです。
 同じ金光様の御信心を頂いておっても、何十年間、それこそ楽しみで朝参りを続けておられる方達は沢山ありますね。
 それだけではいけない、そこから本当の信心が分かると云う事はどういう事かと云うと、今日の御理解のようにね、神の大恩が分かると云う事。
 神の大恩がどういうふうに分かっていくか、分かった事が生活の上にどういうふうに表されていくか、と云う事が、これからの、秋山さんの信心だ、と思うんです。
 どう分かっていっておるか、神の大恩が分かるね。その神の大恩を分からしてもらうね。
 合楽では合楽理念と云うふうに、金光大神の真髄、この神の大恩が実感として分かる。
 その神の大恩の範囲と云うか、広さと云うか、深さ、というものが、克明に説かれる訳です。そしてあれもおかげ、これもおかげである、と云う事を分からせて頂くのです。
 いわゆる一切が神愛と分かった時に初めて神の大恩が分かった時と云う事になるのぢゃないでしょうか。
 合楽にして初めて此処が云えれる所、又、合楽にして初めて頂けれる所、ですからそこん所を分かるだけではなくて、日々の信心生活の上にどう表されていくか、と云う事が、これは限りのない事でしょうけれども、おかげを頂いていかなきゃならない。
 心を神様に生き生きと向ける事によっておかげになっていく、それもそこの所を分からしてもろうて、成程、一切が神愛だな、と実感出来れる日々。
 その為に成行を尊ぶとか大切にする、と云う生き方。いわゆる天地日月の心になる事肝要と云う、ここん所を頂いていかんと実感として一切がおかげであり神愛である、と云うのが分からん。
 昨日は福岡の川上さん達が親子でお参りされましたが、もう信心はそれこそ何十年でしょうね。
 自分の身体の具合が悪いので、御親戚に何軒もお医者さんがありますから、医学で手はつくされるだけの療養をしたけれどもいけない。
 そこで又、あらたかな神様である事だけはおかげを頂いて分かっておりますから、改めて信心を、心を神様に向けられる事になって日参が始まった。
 もう十年余り毎日、日参が続けられておる訳でしょうが、いうならば信心の有難さ、信心の喜び、と云うものが難儀な病気のおかげで分からして頂くようになり、主人御夫婦だけぢゃなくて、子供達の上にも生き生きとしたおかげが現れて来て、川上さんの周辺には本当に信心の有難さが分かっていく人達が育っていき、此処にお参りをして来る道中でも、兎に角、川上さんを待ち構えておって合楽の話を聞きたい、と云うような人達も段々と出来て来るようなおかげを受けて、いうなら金光大神が教えた事をそのまま守っていく生活が出来よんなさるね。
 すべての事に実意丁寧、いうならば神信心と云われるが、とりわけ霊関係の事なんか毎月、霊様の帰幽日には甘菜、辛菜を用意して、毎月五串を上げられる事を長年続けておられる。
 昨日は、それが御長男と一緒でしたが、親子揃って五串を上げておられる時に私が頂きます事が、ヘビなんですよね、小さいヘビなんです。
 そのヘビで interrogation mark ? を頂くんですね、疑問符なんです。
 私共、信心をさして頂いておっても分からない事ばかりですけれども、合楽では、その分からない事ばかりであった事を一つ一つ解明していっておる訳ですね。
 いうならば一切神愛と云う事が分からせて頂く為に天地日月の心を心とする生き方をあらゆる角度から聞かしてもろうて、それを実顕実証して初めて、成程、神愛だな、と云う事が分かる。
 それなら十年前に信心しておる、あらたかな事は分かっとるばってん、これだけはダメだろう、と思うて医者にもかかった、あらゆる手立てもしたけれども良くならない。
 これは、川上家のめぐりと云う事になったね、そのめぐりのおかげで、しかも福岡から合楽までお参りする。
 丁度七年目か八年目の時だったでしょうかね、自分が心に念願しておられた事が成就して日参も出けた、がそれまでは日参を続けると云う事であったんでしょうけれども、その頃には日参がやめられない程に有難いものになっておった。日々の生活の中の一つの日課になってしまった。
 秋山さんぢゃないけれども、信心が楽しくなって有難うなって来た。遠いの近いの、と云う事ぢゃなくなってきた。
 そして、お粗末にしとった訳でもなかろうけれども、例えば御先祖を大切にする、と云う事も心から出来るようになった。
 日常生活の事は尚更、実意丁寧をもってね、合楽理念に基づいた生き方をしなければいけない事が本当に分かって来たね。
 おかげで子供達も一家をあげて神様を中心にした、教えを中心にした生き方が出来るようになって来た。
 初めて此処で解明される、分かった事はね、めぐりそのものも神愛であった、と云う事であるね。
 此処では蛇のお知らせをめぐりと頂きます。
 めぐりの為に難儀がある、だからめぐりのお取り払いとか、因縁を切る為に一生懸命信心をする、と云うような程度の所まで分かっておったけれども、その蛇のように思うておった、そのめぐりと思うておったそれもめぐりではなくて川上一家に本当の徳を下さろう、おかげを下さろうとする働き以外ではなかった、と云う事が分かったね。解明された訳である、だからめぐりなんてものはない。
 私共が難儀と思うておる痛い痒いと云う事も、実際は神願が成就する事の為の現われである、と云う事が分かって来たね。
 そこからです。日々起きてくる全ての事を神愛として受けられる、これも又、小さい問題大きい問題、同じ事ですけれども、やっぱり大きな問題になると、そこに迷いが出るような事もありましょうけれども、それを一つ一つおかげにしていって、神愛と分かると同時に一切がおかげ、いうならばあれもおかげであった,これもおかげであった、と分かるようになるね。
 そういう信心を教祖様は真の信心。真の信者。とおっしゃるんです。
 あれもおかげであった、これもおかげであった、と分かるようになるね、そういう信心をですね、人に伝えていくのが神への御礼ぞ、とこうおっしゃる、それが神になるのぞ、ともおっしゃっておられますね。
 此処の軌道に出た時に初めてお道の信心を頂いておる者の、、、 私、昨日は大変身体がきつくて、やっとお祭りも奉仕させて頂いて、御直会の席も出らんなり帰って来たんです。帰ってから久富さんの奉仕を受けて寝ませて頂いたが、今朝起こして頂く時に、もう有難い目覚しであったが、あの身体のきつさはどこさん行ったぢゃろか、と云うごと心も身体も爽快で気分がいいんです、足の運びなんかでも、もう本当に健康な人達といっちょうでん変らんような感じです。
 だから皆さん、健康であると云う事は、本当はいくら御礼を申し上げてもたらんですばい。
 皆さん、こうやって朝参りでも出来ると云う事は大変な事です。そして私は夕べからこう考えた事ですけれども、研修の時に合楽で教える事はこれだけなんだ、合楽で皆さんに分かってもらうのはこれだけなんだ、これから先は自分で実顕実証して確かなものにしていく以外ないんだと。
 五十人の修行生の先生方がおるが、私の信心のこれだけの事をあんた達が覚えたらね、そしてそれを実顕実証さして確かに親先生が云う通りだ、と云う事が分かったら、もう布教に出ても良いと云う感じがするんです。
 皆さんの場合であってもそうです。今日私が皆さんに聞いて頂くようにね、いうなら実際はめぐりに見えとるけども、めぐりぢゃない、それは私共に力を下さろう、お徳を下さろうとする働き以外にはない。
 一切が神愛だ。此処までは皆さんが分かっておられるのですけども、それを実感出来てない、と云う事なんです。
 それは実顕実証に本気で努めていないからだ、と云う事になるのです。
 だから私が、もう今日亡くなっても、私が云うておった事を実顕実証される構えが出来ておかげを頂かれたらですね、信心が信心を教えてくれる事にもなりましょうから、御理解神成就の為の日々でもある、と同時に御神愛の中に生かされ生きておる喜び、神の大恩が分かる、と云う事になるのです。だから、これは私が何時までも居る訳にはいかんし、何時までもそういう話を皆さんに聞いて頂く訳にはいかんのですから、もういよいよこの辺でです、皆さんのものにしてしまわなければダメです。
 今のお話しは、いわば決定的なお話しですよね。
 めぐりが、難儀があるのはやっぱりめぐりのせいだ、とそれをはっきり解明出来てなかったけどもね、それとても神愛だ、と云う事を分かるだけではなくて、皆さんが実顕していかれなきゃダメなんです。
 それには、まずおかげの有難さから、信心の有難さに進んでいかなければダメです。
 信心の有難さが分かる事の為に、実顕実証していかなければ、私が今日亡くなっても、これを皆さんが体得してさえおられて、それを実顕さえしていかれれば、確かに信心は進んでもいくしね、一年一年確かに有難うもなっていくし、信心の位も自分の心の中に感ずるようなおかげが頂ける、と思うです。
 その為には私の目の黒い間にですたいね。
 そこん所が体得出来て、実顕実証が出来ておる、と云う皆さんになって頂きたい、と云う願いを昨夜からしきりに思いました。
 もう本当に親先生が云う通りだ、としてみるとです、兎に角、日々の構えの、ま、怠慢である事、目の荒い事、をまず気付かせて頂いて本当に神の大恩を合楽理念に基づいて分かる、と云う事ね。
 神の大恩と云う事は、これはおかげで、これはおかげでない、と云う事はなくてね、あれもおかげ、これもおかげであると分かる程の信心ね。
 その事に対して御礼が云えれる信心を身に付けて、しかも自分の、又は自分一家の助かりを人にも伝えていく、神様への御礼の信心ね、又、自分の心が、それが神になるのぞ、と仰せられる自分の心に位を感じていくような、一年一年有難うなっていくようなおかげを身に付けていく事が楽しみ。
 朝参りが有難い、楽しい、御理解は頂く事が楽しい、と云うだけではなくて、いよいよ神の大恩が広く深く分かってね、実感として神への御礼が出来る事の有難さに触れていく信心。
 私は、もうこれだけの事を皆さんに聞いて頂いてるわけですから、これを皆さんが実顕実証なさるより他なか、と思うですね。
 それが実顕実証出来ない所に、改まりが出来ないでおる所から、又は一心発起出来ていないから、カマエが出来ないとかね、いうならば教えをいい加減にしてね、十行じなければならんのを五つ位しか行じていない、と云う事になるのですね。
 行じる事が、難しい事ではない手立てが、合楽では説かれてあるのですから、本気で問題を、それを行じようと云う気になる、と云う事、今日の御理解はそれだと思うんです。
 金光大神がね、天地金乃神より受けた、何時までも尽きぬ事のないおかげを話に残しておく、と云うのは、今、合楽で云われておる事だと思うです。
 何時までも尽きる事のない話をね、皆さんにこのようにして聞いて頂いとるのですからね。
 尽きぬおかげの頂けれるなら、基礎とか土台を作るのは皆さんだ、と云う事になるのぢゃないですかね。
                        「どうぞ」